天覧試合の背景
1959 年 6 月 25 日、後楽園球場で行われた読売対阪神戦は、昭和天皇・皇后両陛下が観戦する「天覧試合」として開催された。プロ野球の試合を天皇が観戦するのは史上初のことであり、球界を挙げての一大イベントであった。当日の後楽園球場は超満員の観客で埋まり、NHK と日本テレビがそろって全国生中継を行った。ラジオも含め、数多くの国民がこの試合をリアルタイムで追いかけた。 天覧試合が実現した背景には、1950 年代後半のプロ野球人気の急速な高まりがある。街頭テレビから家庭のテレビへと視聴の場が移りはじめ、プロ野球中継が国民的娯楽として定着しつつあった時期である。宮内庁と球界の間では警備体制や試合進行の段取りが入念に詰められた。後楽園球場には天皇・皇后両陛下のための貴賓席が特別に設営された。両チームの選手たちは、天皇の前で最高のプレーを見せようと気合いを入れて臨んだ。ジャイアンツの水原茂監督と阪神の田中義雄監督は、ともにベストメンバーで臨むことを宣言し、この試合が単なるペナントレースの 1 試合ではなく、プロ野球の威信をかけた一戦であることを強調した。 当時のセ・リーグは読売と阪神が首位争いを繰り広げており、ペナントレースの行方を左右する重要な一戦でもあった。読売は前年の 1958 年にセ・リーグを制したものの日本シリーズでは西鉄に敗れており、雪辱を期すシーズンの真っ只中にあった。阪神も打線に藤本勝巳、三宅秀史らを擁し、投手陣には村山実、小山正明という二枚看板を揃えて優勝を狙っていた。両チームの実力が拮抗していたからこそ、天覧試合にふさわしい緊迫した試合展開が期待されていた。
試合の経過 - 小山と藤田の投げ合いから乱打戦へ
阪神の先発は小山正明、読売の先発は藤田元司。藤田はこの年 27 勝を挙げる活躍を見せており、両軍のエース同士の投げ合いという最高の構図が実現した。試合が動いたのは 3 回表、小山自らの適時打で阪神が先制する。読売は 5 回裏、長嶋茂雄と坂崎一彦の連続本塁打で 2-1 と逆転した。しかし阪神も 6 回表、三宅秀史の適時打と藤本勝巳の本塁打で 4-2 と再逆転し、天覧試合は息詰まる点の取り合いとなった。 7 回裏、王貞治が本塁打を放ち、読売が 4-4 の同点に追いつく。王はこの年入団したばかりの 1 年目、19 歳。5 回の長嶋の一発と合わせ、後に「ON 砲」と呼ばれる 2 人が同じ試合でそろって本塁打を放った最初の試合となった。王の本塁打の直後、阪神ベンチは先発の小山から新人の村山実へスイッチする。村山はこの年、防御率 1.19 で最優秀防御率のタイトルを獲得することになる剛腕で、速球とフォークボールを武器にジャイアンツ打線へ立ち向かった。試合は 4-4 のまま終盤へ進み、天皇・皇后両陛下の退席予定時刻である 21 時 15 分が刻々と迫っていたことが、この試合の緊迫感を一層高めていた。
長嶋茂雄のサヨナラ本塁打
9 回裏、先頭打者としてジャイアンツの長嶋茂雄が打席に立った。21 時 12 分、長嶋は村山の投球を完璧に捉え、打球はレフトポール際に飛び込むサヨナラ本塁打となった。読売 5-4 阪神。両陛下の退席予定時刻 (21 時 15 分) の 3 分前という劇的な決着に、後楽園球場は地鳴りのような歓声に包まれた。 長嶋はダイヤモンドを一周しながら、三塁を回ったところで帽子を取り、ロイヤルボックスに向かって深々と一礼した。この所作は事前に打ち合わせたものではなく、長嶋の咄嗟の判断だったとされる。天皇の前で劇的な幕切れを演じ、なおかつ礼節を忘れなかった長嶋の姿は、日本プロ野球史上最も有名なシーンの一つとして語り継がれている。天皇・皇后両陛下はサヨナラ本塁打での決着を見届けてから席を立った。長嶋がホームベースを踏んだ瞬間、チームメイトが一斉にベンチを飛び出して長嶋を取り囲み、歓喜の輪が広がった。テレビ中継のアナウンサーは興奮のあまり絶叫し、その実況音声は後年何度も繰り返し放送されることになる。 一方の村山は、この打球がレフトポール際のきわどいコースに飛んだことから、晩年まで「あの打球はファウルだった」と主張し続けた。当時はビデオ判定の技術がなく、審判の目視による判定が最終決定であった。村山のこの主張は、敗者の負け惜しみというよりも、天覧試合という特別な舞台で全力を尽くした投手の矜持として、ファンの間では温かく受け止められている。長嶋自身も後年、村山の悔しさに理解を示し、あの試合は村山の試合でもあったという認識を持っていたとされる。村山は試合後、ロッカールームで涙を流したと伝えられており、その悔しさが以後の投手人生を支える原動力となった。
天覧試合の歴史的意義
天覧試合は、プロ野球が日本の国民的スポーツとして認知された象徴的な出来事であった。戦前から続くプロ野球は、長らく「興行」「見世物」と見なされ、社会的地位は決して高くなかった。天皇が観戦するという事実は、プロ野球に国家的な格を与え、スポーツとしての正統性を確立する転機となった。この試合以降、プロ野球選手は「国民的ヒーロー」として社会的に認知されるようになり、長嶋茂雄はその象徴的存在となった。 長嶋と村山の対決は、読売対阪神の「伝統の一戦」を象徴するライバル関係として、以後 60 年以上にわたって語り継がれている。両者はこの試合以降も幾度となく名勝負を繰り広げ、セ・リーグの看板カードとしての読売対阪神戦の価値を高め続けた。村山は通算 222 勝を挙げ、沢村賞を 3 度受賞する大投手に成長したが、天覧試合での悔しさが村山の闘志の原点であったとも言われる。村山にとっても天覧試合は人生を変えた一戦であり、あの試合での悔しさが投手としての成長の原動力となった。 この試合の熱狂は、プロ野球中継がテレビの主要コンテンツとなる契機でもあった。1960 年代から 1980 年代にかけて、読売戦のテレビ中継は高い視聴率を記録し続け、読売グループがプロ野球の放映権を事実上支配する構造が固定化された。天覧試合は、プロ野球がテレビ時代の国民的コンテンツとして確立される起点であり、日本のスポーツ文化史における最重要イベントの一つである。天覧試合から 60 年以上を経てなお、この試合は「プロ野球史上最高の試合」として多くのファンに記憶されており、長嶋のサヨナラ本塁打の映像は長く特番で放送され続けてきた。