「掘り下げられた」ベンチ - 他のスポーツにはない構造
サッカーのベンチはピッチと同じ高さにある。バスケットボールのベンチもコートサイドに平置きされている。しかし野球のダグアウトは、グラウンドの表面より一段低い位置に掘り下げられている。この構造は野球特有のものであり、他の主要スポーツには見られない。ダグアウトの床面はグラウンドレベルより約 60〜90 センチメートル低く設計されており、選手がベンチに座った状態では頭がグラウンドレベルとほぼ同じ高さになる。この「掘り下げ」がダグアウト (dug out = 掘り出された) という名称の由来である。
最大の理由 - 観客の視界を遮らないため
ダグアウトが掘り下げられている最大の理由は、観客の視界を確保するためである。野球場の一塁側・三塁側の最前列の観客は、ダグアウトのすぐ後ろに座っている。もしダグアウトがグラウンドと同じ高さにあれば、ベンチに座っている選手やコーチの頭と体が、観客の視界を大きく遮ることになる。特に内野の低いゴロや、一塁・三塁付近のプレーが見えなくなる。ダグアウトを掘り下げることで、選手がベンチに座っていても観客の視線の下に収まり、グラウンド上のプレーが遮られない。この設計は、野球が「観客に見せるスポーツ」として発展してきた歴史を反映している。
選手の安全 - ファウルボールからの保護
ダグアウトの掘り下げには、選手の安全を確保する目的もある。野球では打球がファウルゾーンに飛ぶことが頻繁にあり、ライナー性のファウルボールがベンチ方向に飛んでくることがある。ダグアウトがグラウンドレベルより低ければ、ライナー性の打球はダグアウトの上を通過し、ベンチにいる選手に直撃するリスクが低減される。さらに、ダグアウトの前面にはフェンスや手すりが設置されており、これも打球からの保護として機能する。もちろん、完全な安全が保証されるわけではなく、ダグアウト内にファウルボールが飛び込んで選手が負傷するケースは稀に発生する。しかし、掘り下げ構造がなければ、その頻度ははるかに高くなるだろう。
19 世紀の起源 - 最初は本当に「穴を掘った」
ダグアウトの起源は 19 世紀のアメリカの野球場に遡る。初期の野球場にはベンチすら存在せず、控え選手はフィールドの脇に立っていた。やがて選手のための座席が設けられるようになったが、当初はグラウンドと同じ高さに置かれた簡素なベンチであった。観客の視界を遮る問題が認識されると、ベンチをグラウンドより低い位置に設置する工夫が始まった。初期のダグアウトは文字通り地面を掘り下げて作られたものであり、「dugout」という名称はこの物理的な工事に由来する。現代の球場ではコンクリートで構造的に設計されたダグアウトが標準だが、名称だけは「掘り下げた」時代の名残を留めている。
ダグアウトの「ホーム側」と「ビジター側」
NPB の球場では、ホームチームが一塁側ダグアウト、ビジターチームが三塁側ダグアウトを使用するのが一般的である。ただし、これは絶対的なルールではなく、球場によって異なる場合がある。甲子園球場では阪神が三塁側を使用しており、これは球場の構造上の理由と歴史的な慣習に基づいている。MLB ではホームチームがどちらのダグアウトを使うかは球団の選択に委ねられており、一塁側と三塁側の選択は球場ごとに異なる。ダグアウトの左右の選択には、太陽の位置 (日陰になる側を選ぶ)、ブルペンへのアクセス、クラブハウスへの動線などが考慮される。
ダグアウトは野球の「舞台裏」である
ダグアウトは、グラウンドという「舞台」に対する「舞台裏」として機能している。選手はダグアウトで出番を待ち、監督はダグアウトから指示を出し、コーチはダグアウトでデータを確認する。テレビカメラがダグアウトの様子を映すとき、視聴者は試合の裏側を覗き見る感覚を味わう。監督の表情、選手同士の会話、悔しそうにバットを置く打者。ダグアウトは感情が最も生々しく表出する場所である。そしてそのダグアウトが地面より低い位置にあるという構造は、「舞台裏は表舞台より一段低い場所にある」という劇場の設計思想と重なる。ダグアウトの掘り下げは、単なる視界確保の工夫を超えて、野球場を「劇場」として成立させるための空間設計なのかもしれない。