「振り逃げ」は正式名称ではない
まず押さえておくべきは、「振り逃げ」という言葉は公認野球規則に存在しない俗称であるということだ。正式には「第 3 ストライクを捕手が正規に捕球できなかった場合」に打者が一塁への進塁を試みることができるルールである。「振り逃げ」という名称は、打者がバットを振って三振した後に一塁に走る姿から付けられた通称に過ぎない。しかも「振り逃げ」は「振った」場合に限らない。見逃し三振でも、捕手が捕球できなければ打者は一塁に走ることができる。つまり「振り逃げ」ではなく「見逃し逃げ」も成立する。この時点で既に、多くの野球ファンの認識と実際のルールにズレが生じている。
振り逃げが成立する条件 - 4 つの分岐
振り逃げが成立するには、以下の条件をすべて満たす必要がある。第一に、第 3 ストライクが宣告されること。これは空振りでも見逃しでもよい。第二に、捕手がその投球を正規に捕球できないこと。ワンバウンドした投球、捕手が後逸した投球、捕手のミットからこぼれた投球などが該当する。第三に、一塁が空いていること。ただし、二死 (2 アウト) の場合はこの条件が免除され、一塁に走者がいても振り逃げが成立する。第四に、打者がアウトになる前に一塁に到達すること。この「一塁が空いているか、二死であるか」という条件分岐が、振り逃げを複雑にしている最大の要因である。なぜ一塁走者がいると振り逃げが成立しないのか。それは、捕手がわざとボールを落として併殺を狙う「故意落球」を防ぐためである。
歴史的起源 - 19 世紀の野球にはキャッチャーミットがなかった
振り逃げルールの起源は、19 世紀の野球に遡る。初期の野球では捕手はミットを使用しておらず、素手で投球を受けていた。当然、捕球ミスは頻繁に発生した。当時のルールでは、三振は「捕手が第 3 ストライクを捕球して初めて成立する」ものであった。つまり、捕手が捕球できなければ三振は成立せず、打者はまだアウトになっていない状態だった。キャッチャーミットが発明され、捕球技術が向上した後も、このルールの名残が「振り逃げ」として残った。現代の野球では捕手が第 3 ストライクを落とすことは稀であるため、振り逃げは「例外的な状況」として扱われている。しかしルールの構造上は、三振の成立に捕手の捕球が関与するという 19 世紀の原則が今も生きているのである。
NPB で実際に起きた振り逃げの珍プレー
振り逃げは稀な事象であるがゆえに、発生すると混乱を招くことがある。最も有名な振り逃げの珍プレーの一つは、打者が三振したことに気づかず、ベンチに戻ろうとしたところを味方のコーチが「走れ!」と叫んで一塁に走らせたケースである。逆に、捕手が第 3 ストライクを後逸したにもかかわらず、打者が振り逃げの権利に気づかずベンチに戻ってしまい、アウトが宣告されたケースもある。審判も混乱することがある。一塁に走者がいる状態で振り逃げが発生した場合、審判は瞬時に「二死かどうか」を判断しなければならない。二死なら振り逃げ成立、一死以下なら不成立。この判断を試合の流れの中で瞬時に行うのは、審判にとっても高度な判断力を要する場面である。
振り逃げで得点が入る - 最も劇的なシナリオ
振り逃げの最も劇的なシナリオは、振り逃げによって得点が入る場面である。二死満塁で第 3 ストライクが暴投となり、三塁走者がホームに生還する。この場合、打者は三振でありながら打点が記録される。記録上は「三振」と「打点」が同時に成立するという、野球の記録体系の中でも最も奇妙な組み合わせの一つである。さらに珍しいケースとして、振り逃げで打者が一塁に到達し、その間に複数の走者が生還して大量得点が入ることもある。捕手の後逸が暴投と重なり、ボールがバックネット方向に転がっている間に走者が次々とホームを踏む。三振から始まったプレーが、一挙に試合の流れを変える。振り逃げは、野球が「何が起こるかわからないスポーツ」であることを最も端的に示すルールなのかもしれない。
なぜ振り逃げは廃止されないのか
振り逃げは複雑で混乱を招くルールであるにもかかわらず、廃止の議論はほとんど起きていない。その理由は、振り逃げが野球の根本原則を体現しているからである。野球では、守備側がボールを確実に処理して初めてアウトが成立する。フライを捕球しなければアウトにならない。ゴロを一塁に送球しなければアウトにならない。同様に、第 3 ストライクを捕球しなければ三振は完結しない。この「守備側の確実な処理がアウトの条件」という原則は、野球というスポーツの根幹をなすものであり、振り逃げはその原則の論理的帰結に過ぎない。振り逃げを廃止するということは、「三振だけは捕球しなくてもアウト」という例外を作ることになり、野球のルール体系の一貫性を損なう。複雑であっても、論理的に正しいルールは残り続ける。振り逃げは、野球のルールが持つ美しい論理性の証明なのである。