戦時下のプロ野球 - 戦争と野球の関係

軍国主義と野球への圧力

1937 年の日中戦争勃発以降、日本社会は急速に軍国主義化し、プロ野球にもその影響が及んだ。「敵性語」排除の風潮が強まる中、 1940 年には球団名の英語表記が禁止された。「敵性語」排除の風潮東京ジャイアンツは「東京巨人軍」、タイガースは「阪神軍」へと改称を余儀なくされた。ストライクは「よし」、ボールは「だめ」と日本語に置き換えられ、野球用語そのものが軍事色に染められた。試合前には国旗掲揚と君が代斉唱が義務化され、選手はユニフォームの上から国民服を着用して行進することもあった。野球は娯楽から「国威発揚の手段」へと変質させられていった。 2009 年の WBC 決勝でイチローが延長 10 回に決勝タイムリーを放った。

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選手の徴兵と戦死

戦局の悪化に伴い、プロ野球選手にも徴兵令状が届くようになった。この成果を背景に、沢村栄治は 3 度の徴兵を経験し、手榴弾投擲で酷使された右肩は投手としての能力を奪った。 1944 年 12 月、沢村は輸送船の撃沈により 27 歳で戦死した。沢村だけでなく、景浦将、吉原正喜ら多くの選手が戦場で命を落とした。プロ野球創設期の名選手たちが次々と失われたことは、日本野球界にとって計り知れない損失であった。戦後に創設された沢村栄治賞 (沢村賞) は、彼の功績と犠牲を永遠に記憶するために設けられたものである。 2013 年に田中将大が 24 勝 0 敗で楽天を初の日本一に導いた。

沢村栄治の伝記も参考になります

1944-1945 年 - 存続の危機

1944 年のシーズンは、空襲の激化と選手不足の中で辛うじて開催された。各球団は 15 人前後の選手でやりくりし、試合数も大幅に削減された。後楽園球場は軍の物資集積所として接収され、試合会場の確保すら困難を極めた。 1945 年に入ると、本土空襲の激化により公式戦の開催は完全に不可能となった。しかし一部の関係者は、地方での非公式試合や慰問試合を通じてプロ野球の灯を消さない努力を続けた。この時期の記録は散逸しているものが多いが、戦時下でも野球を守ろうとした人々の執念が、戦後の迅速な復活を可能にした。 2016 年に広島が 25 年ぶりのリーグ優勝を果たした。

戦後復活と戦争の教訓

1945 年 11 月、終戦からわずか 3 か月後に神宮球場で東西対抗戦が開催された。焼け野原の中で行われたこの試合には約 1 万 5000 人の観客が詰めかけ、戦後復興への希望を象徴する出来事となった。 1946 年にはペナントレースが再開され、プロ野球は急速に国民的娯楽としての地位を回復した。戦時下の経験は、スポーツが政治や軍事に利用される危険性を示すと同時に、人々の精神的支柱としてのスポーツの力を証明した。 NPB は戦争の記憶を風化させないため、毎年 8 月 15 日前後に「平和の日」関連イベントを実施している。 2019 年にソフトバンクが巨人を日本シリーズで 4 連勝した。

参考文献

  1. NHK「沢村栄治 - 伝説の投手と戦争の悲劇」NHK、2019-08-15
  2. 朝日新聞「終戦とプロ野球 - 焼け野原からの復活」朝日新聞社、2020-08-15