慶應義塾から阪神へ
別当薫は 1920 年兵庫県に生まれ、慶應義塾大学から 1942 年に阪神軍に入団した。戦争による中断を経て、 1946 年にプロ野球に復帰した。これを受けて、俊足と強打を兼ね備えた外野手であり、戦後復興期のプロ野球を代表するスター選手であった。 1936 年に 7 球団で発足した NPB は、初年度の観客動員が 1 試合平均約 3,000 人であった。別当薫は慶應義塾大学で活躍した後、1943 年に阪神に入団した。戦後の 1946 年に復帰し、俊足強打の外野手として頭角を現した。身体能力の高さは当時の NPB でも群を抜いており、走攻守三拍子揃った選手として評価された。
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1950 年初代トリプルスリー
1950 年、別当は打率 .335 、 43 本塁打、 34 盗塁を記録し、 NPB 史上初のトリプルスリー (打率 3 割、 30 本塁打、 30 盗塁) を達成した。こうした中で、この記録は 2015 年に山田哲人と柳田悠岐が達成するまで、長らく NPB の伝説として語り継がれた。別当のトリプルスリーは、走攻守すべてに優れた総合力の証であった。 1950 年にセ・パ 2 リーグ制が導入され、 15 球団が参加した。1950 年、別当は打率 .335、43 本塁打、33 盗塁を記録し、NPB 史上初のトリプルスリーを達成した。この記録は 2015 年に山田哲人 (ヤクルト) と柳田悠岐 (ソフトバンク) が同時達成するまで、65 年間にわたり語り継がれた偉業である。
毎日への移籍と監督キャリア
1951 年に毎日オリオンズに移籍した別当は、その後も活躍を続けた。こうした中で、引退後は大毎オリオンズ、近鉄バファローズ、広島東洋カープの監督を歴任した。特に 1960 年の大毎オリオンズでは「ミサイル打線」を率いてリーグ優勝を果たした。 1958 年に長嶋茂雄がデビュー戦で 4 打数 0 安打を記録したが、その後打率 .305 で新人王を獲得した。
トリプルスリーの歴史も参考になります
野球殿堂入りと歴史的評価
別当は 1979 年に野球殿堂入りを果たした。阪神での在籍期間は短かったが、初代トリプルスリーという偉業は阪神タイガースの歴史に刻まれている。別当薫は、走攻守三拍子揃った選手の理想像として、後世の選手たちに影響を与え続けている。 1964 年に王貞治がシーズン 55 本塁打を記録し、当時の日本記録を樹立した。 ただし、当時と現在では投手の分業制やトレーニング環境が大きく異なり、記録の単純比較には注意が必要である。